Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#48
学外の方も聴講可能とします。
だが、こうして多くの言葉を事前にくぐり抜けたにもかかわらず、あるいは、だからこそ、あなたたちのことをほとんど知らない
フリスビーって公園でやることが多いと思うんですけど、それをストリートでやるっていうものです。スケボーとか、BMXとかみたいなストリートでやるものの仲間です。例えば、立体駐車場のカーブしてる壁でギリギリその壁に当たらないように、向こうにいる仲間に飛ばしたりとか。要は、手首のスナップ具合が、都市とリンクしてるんです。ある壁の、登ることもできないし通常だったら触りもしないような都市の大きい空間と、手首のスナップが、フリスビーを介して接続してるっていうのが面白いなと思って。
ただその空間を見てるだけでも何かに気づくきっかけみたいなものは埋め込みたいという、それが僕のいう、「レッスン」っていう話で、空間を読んだりとか、ものの意味を読んだりとか、何かが変わるってことに気づく視点を持つためのレッスンというか。建築にはそういう機能というか力もあるなとも思っていて。そういう視点を持てると、例えばそこらへんを歩いているだけでも、見えているものにツッコミを入れ続けれるし、色々な発見があって、そのことで広がる世界もあると思う
なんとかして水を確保し利用していこうとする土木技術・政治的判断の行使は、いっぽうで人間がどのように制度を整え、言葉を定義し、物質としてそれらを実行するのか、ということを端的に示している。ある土地に、人が集まり暮らそうとするとはどういうことなのか、
Lines and Around Lines - Case in Singapore/Tokyo|Transfield Studio
会場構成とは、面的に広がりある空間に、順路という形でタイムラインを線として引き、その時間を感知するための移動を作品を並べることによって促す行為だ。しかしここでいうタイムラインとは、強く拘束され脇見も許さない固定的な時間構造ではなく、想定された鑑賞順に先がけて見かけてしまうことや、以前の経験を引き継いで見ることも引き受けるものである。(桂川大+山川陸)
鑑賞という作品への参与と、そうする身体、そして集まる人々との共同性について考えること。
そんななか、ベンチソファーは、部屋の空いた場所に置かれている。休憩のためにそれは置かれていることが多い(ように感じる)。あるいはそれは、部屋と部屋の間の廊下に置かれていることもある。窓からただ外が見えたり、関連資料が置かれたり、時にほかの展覧会のフライヤーが置かれたり、展示の鑑賞からひととき離れることがベンチソファーの上では許されている。
ここ本州が島である以上、海岸線に向かって内陸のすべてはいずれ下っていく。
人が集まって何らかの営みをするためにはある程度の平らな場所が必要で、埋立地というのは必要に応えて作られるという意味で最もラディカルな地面のあり方
大学生のときから都市や建築の動的な部分に関心があって、思考における時間と空間のバランスとして、人が50年住む住居を1年で設計するようなあり方に違和感がありました。なので、60分の出来事を1年かけて設計するようなパフォーミングアーツの作り方に吹っ切れました。
それぞれがヘッドホンをつけていながら、同じように同じものを見ている、という共同体のような感覚
建築学の背景にはヨーロッパ型の都市計画や空間認知の理論がありますが、それに対してトゥクトゥクのドライバーが住所は覚えていないけれどロードナンバーは完全に把握しており、図と地の関係が反転している
動きは淡々と前に進み、それを追いかけるようにして見る観客のなかに、そして動きが置きなおされていく空間のなかに、ダンスというものが生まれる気配がある。私がよく知っている道にたくさんの私の断片があるように、6stepsのある空間には、様々な動きの断片が散らばっている。(白尾芽)
人を踊らせる階段を踊らせる空間を踊らせる──「6steps|6段の階段+振付書+演出から生まれるダンス『リフト』」レビュー(評:白尾芽)|Tokyo Art Beat
植民地支配や都市開発というのは、自分と縁のない暴走する権力みたいなことではなくて、結局は人間が想像した結果である。あなたもそのような想像力を持つことはできてしまう。
時間を時間そのものとして経験できないことと折り合いをつける方法の探求(桂川大+山川陸)
地図や模型というものが、対象を小さくする装置ではなく、見ている我々の身体を大きくする装置として考えてみたい
なるべくいてほしいという意思は、座り込みの無視に代表される達成できなさを考慮しないかつての〈「ひととおり」の鑑賞〉の理想を反転したものと言える。そして、なるべく(多くの人に/長い時間)いてほしいというのは、実際のところ“本当に”達成はできず、その意味で、新たな理想とも言える。
演劇とかダンスの場合は、空間の中で、“先生”のように目の前でパフォーマンスしてる人がやって見せてくれることで、空間や物の見え方が変わるっていうスイッチが作動するんだけど、そういう人がいなくても、意味に気づいたり、変化に気づくきっかけを作れないかということ
高さがもたらす、向こうが見えないというごくシンプルな現象が引き起こした分断と、その乗り越え方
人が集まって何らかの営みをするためにはある程度の平らな場所が必要で、埋立地というのは必要に応えて作られるという意味で最もラディカルな地面のあり方
映像作品を鑑賞するとき、私たちは映像の映し出される画面の前へ立ち、眺める。そしてまた歩き、次の作品へと移動する。作品から作品へと移動することは展覧会がそもそも要請している運動ではあるが、移動を推進する力を発生させるように映像の向きが振られている、というわけだ。異なる向きの画面を追うことで、人は前へ前へと進んでいく。(桂川大+山川陸)
線形の時間的経験を、(室の境界の中とはいえ)広がりある空間として構成するということだ。このときの構成の手つきは図面や模型を介して行われるが、事物の配置はその状態が俯瞰的に経験されるわけではなく、あくまで順に巡ることで経験される。(桂川大+山川陸)