Kyoto City University of Arts

Advanced Design Studies

PoolRiver

プールリバー


#38

本橋仁

メディアとしての建築バカ、バカのバカ

開催日時:

2024/12/04(水)

18:15-19:45

開催場所:

京都市立芸術大学 - 京都府京都市下京区下之町57−1 B棟3F 講義室4

備考:

学外の方も聴講可能とします


略歴:

博士(工学)、建築史家。金沢21世紀美術館レジストラー。メグロ建築研究所取締役、早稲田大学建築学科助手、京都国立近代美術館特定研究員、文化庁在外芸術家研修員としてThe Canadian Centre for Architecture(CCA)。作品に「旧本庄商業銀行煉瓦倉庫」(建築、1896年竣工、2017年改修)、「バイオマス・マクベス」(演劇、家を渉る劇、2024)、著書に『クリティカル・ワード 現代建築──社会を映し出す建築の100年史』(編著、フィルムアート、2022)、『ホルツ・バウ──近代初期ドイツ木造建築』(共編著、TOTO出版、2022)。展覧会に「第14回ヴェネチアビエンナーレ国際建築展日本館」(2014)、「分離派建築会100年 建築は芸術か?」(京都国立近代美術館、2020)、「すべてのものとダンスを踊って 共感のエコロジー」(金沢21世紀美術)。

関連テキスト:

日本では、建築家の新たな職能として、コミュニティの再生や創出に取り組むことはいまや一般的になっている。その一方で、こうした新たな形のコミュニティの強度は、2020年からの新型コロナウイルスで試された。コロナ禍では人が集うことを奪われ、人はまたしても孤独と戦うこととなった。オンラインのコミュニティが、その救世主として現れ、情報空間でのコミュニケーションの障壁は一気に取り払われていったが、一方でリアルを振り返れば、新型コロナウイルスが跋扈する外界から身を閉ざすように、私たちは再び「家」に幽閉された。そこにあるのは、また孤独なのだろうか?日本の「家」とは?

建築展評│09│​​ᐊᖏᕐᕋᒧᑦ / Ruovttu Guvlui / Vers chez soi / Towards Home | by 本橋 仁 | 建築討論 | Medium

建築展に思うこと。一つ目は、建築展のレビューをめぐる、キュレーションへの言及の不在である。それは建築展という仕組み自体にも問題の根源はありそうだ。建築展の常套句として、建築展では「建築の代理表象」として、図面や写真、模型を展示せざるを得ないと言われる。いわゆる「建築は持ってこられないからね」というやつだ。あらかじめ公言しておくが私はこの言葉が嫌いだ。この言葉の先に、建築展の限界が見えてしまうからだ。しかし裏を返せば、どんなところでも、やりようによっちゃ”建築展”と言えてしまう自由さを持つ。そう思えば多少は溜飲を下げることができる。ただ、その自由さと引き換えに、少し大事な視点も見失っていると思う。それは、その展覧会が「どこで・だれが」作るかというキュレーションの視点である。

建築展評、そのスタートに際して

祭がもたらす一年の周期。その日を逃せば、さらに一年後にしか再会は叶わない。この祭というシステムに、一度でも乗り遅れれば、縦につながった地域コミュニティの紐帯は揺さぶりをかけられてしまう。

本橋仁|ちびでか山縁起──能登・七尾一本杉通りでの建築家・岡田翔太郎さんとVUILD株式会社によるプロジェクト

つまりわたしたちが守ろうとしている景観は、ある意味では、ある時点で時計の針をとめた状態だ。しかし、その過去と未来を退けるようなあり方は、本当に景観への評価に合ったものだろうか。ロマン主義にも程があるぜ? と思うが、一方でそうした状況へのカウンターとして、風景のもつ「構造」を保全し構造を守る、構造主義にも程があるぜ! な文化的景観が法制化までされて、いまに至る。国は重要文化的景観を指定する。つまり文化的景観の重要文化財であって、そこで守られるのは見えない、数値化しづらい構造なのである。その評価基準や保護の仕方について、そのわかりづらさに対する批判もある。そりゃそうだと思う。

本橋仁|ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展指名コンペ、敗戦記──①詐欺メール!?の編 – artscape

モントリオールは巨視的には確かに古い街並みを残す歴史ある街だ。でも、そんなイメージとは裏腹に、微視的には変化もしている。そのことを強く感じたのは、ある住宅の解体現場だった。家の近所にはいくつかのスーパーがあるが、なかでもスーパーマルシェPAという店にいつの間にか落ち着いた。値段が安い割に品も良い。夕方には仕事終わりの多くの人々で賑わう。そのスーパーの横に並んでいたレンガ造の小さな住宅が、ふと気付くと解体されていた。モントリオールで解体現場を目にする機会は少なくないのだが、連なる2棟の住宅のうちひとつだけが壊され、所在なさげに残されたもうひとつの住宅を見て、ふと京都で見ていた風景をそこに重ねたのである。

第1回 連載のはじめに | かみのたね

私はおにぎりを頬張りながら、この美しい日本庭園の造園家を知りたいと思った。携帯でググると、すぐに設計者はわかった。中島健。とはいえ、それは私にとって初めて見る名前でもあった。しかし彼の仕事を見てみると、これまで彼の名前を知らなかったことを恥じることとなる。なぜなら、よく知られた近代建築に付随する庭園の設計が、軒並み中島健の若い頃の仕事だったからである。なかでも建築家・吉田五十八の代表作の庭園は中島の手によるものであった[5]。そっか、吉田五十八か。庭園には明るくないが、建築からであれば歴史の扉を叩けそうだ。わたしの興味は造園家・中島健に惹かれていった。

第2回 モントリオールの日本庭園 | かみのたね

この地で最初にアスベストが見つかったのは、1876年7月であった[3]。このエリアに住む農家であるジョセフ・フェクトー(Joseph Fecteau)が最初の発見者とされている。彼は、セットフォードに住んでいた農夫であった。彼は、このアスベストの発見について、専門家に意見を求めた。最初に送ったケベックの専門家には、その価値を否定される。しかし、これをアメリカに送ったところ、その発見の偉大さに気が付かされるに至る。こうして、アスベストの採掘が、このセットフォードで一気に始まる。採掘当初の採掘量は、その記録が失われているようであるが、1889年には、1,800トンの採掘量があったとされる。その後、アスベストの採掘量は、どんどんと上がり、下表のように、1967年には54,976トンもの採掘がなされている。

第3回 石を探せ:ケベックにおけるアスベストの歴史と日本庭園 | かみのたね

そこで多くの商店が取り付けているのが、「オープン(フランス語圏なのでOUVERT)」と書かれた光るネオンサインである。確かに海外に行くと、この手のネオンをつけていることも多いとは思う。だが日本ではあまり見ない。つけているとしても、それはオシャレのためだったりすることが多いように思う。ただ、モントリオールでは本当によくこのネオンが目につく。窓にピッタリとつけられた「オープン」のカラフルな照明は昼間から当然ついており、この店がやっていることの証になっている。日本とは違い、商売上がったり!を防ぐための、喫緊の課題のためにつけられている。

第4回 モントリオール、窓考 | かみのたね

場所のコンテクストから切り離して、いま如何に建築は保存可能なのだろうか? 19世紀の松涛庵と21世紀美術館。いま、問題とされているのはこの狭間にある、20世紀の建築群である。保存と解体の悲劇で、建築が地縛霊とならないために、都度都度、保存の議論は柔軟に考えていきたいものです。

絵本『ちいさいおうち』の結末は、ハッピーエンドか?──ゲニウス・ロキから考える、モダニズム建築保存の困難:フォーカス|美術館・アート情報 artscape