Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#34
学外の方も聴講可能とします
人間の優しさと残酷さを照らし出しながら、他者に依存しつつ互いが独立して過ごす社会の可能性
しばしば「他者」についてわかったような振りをしたまま、もしくはそれさえすることもなく、多くの「他者」や「出来事」とすれ違っている。
環境条件の変化によって、「私」は移り変わる。本展では、時代的な限界を汲み取って当時の文脈に寄り添うのでも、断罪するのか免罪するのかと現代の地平から裁くのでもない。ある時代、ある人間の身体に表れた矛盾そのものを、まずは自身に重ねてみることを促す。
それぞれの作家を仕切る壁も、作品の大きさの緊張感あるバランスも、壁を占める絵画の分量も、ところどころに塗られた展示室のピンクやグレーの色のつくり出すメリハリも
キュレーションの理想は、ゼロ・キュレーション、つまりキュレーターの存在より、個々の作品の展示やそれぞれの連関が最もよい形で見えるのがよいとする意見が、意外に大勢を占めている。しかし、キュレーターがコーディネーターになってしまい、その個性や能力(コミュニケーションや運営を含めて)が見えなくなるのも、またつまらない。
髪を風になびかせながら、バイクから投げ掛けられる刹那の視線。疾走するバイクの背後には常に死の影がちらつくが、それがいま現在の彼らの生、刹那の恋を強烈に照らし出す。恋愛は他のどのような関係よりも、他者とのディープなコミュニケーションの可能性を孕んでいるが、壁に無数に貼られた恋人たちは、時間を超えたラブ・ストーリーのようであり、現代社会が失ってしまったかにみえる情熱がそこで鮮やかに浮かび上がってくる。
一度剥き出しになった物質性が、手掛かりを失ってさらに裏返ったとき
芸術は社会に起きたことの応答だけでないはず
この世界に対する新たな手触りを与え、また日常における知覚認識に疑いを差し挟みうる作品
そこでは過去と現在において、異質なところがあるがゆえに社会から遠ざけられる人々が登場するが、それらの作品は決して告発の調子を帯びることなく、詩情ある物語と映像が、水のようにひたひたと見る者を満たしていく。
それでもそのささやかな緑が、展示室の壁全体を、肌色のような親密なピンクに変えるのである。
これらのアートスペースで形成されていく緩やかな人々の繋がり、そこから生まれてくる議論や活動は、作家、美術関係者、鑑賞者のあいだに生まれるアートを中心としたものの内側に留まらず、真の「公共性」に近づいていくように感じられる。もともとアートは、社会における問題提起的な要素を含んでいる。それでも、それはあくまで美術の表現内に留まって、作家以外の者によって実践に近い場で展開される機会は少ない。そうしたときアートセンターは、地域に根ざしたコミュニティの中でそれが展開していく場を提供しうる。それは、来場者も参加できるとはいえ、限られた時間内でどこか予定調和的に進められていく美術館でのトークやワークショップでは、残念ながら、なかなか実現しえないものである。
撮る/撮られる(観る/観られる)という関係や、個人の領域に踏み込むような侵犯性、それらに付きまとう窃視症的な感覚。そうした後ろめたさや疾しさもすべて包み隠さず、自らの身体で、時間を掛けてそこに向き合っていく。そうすると、相対する関係性を越え出てくるなにかが現われてくるような気がする。
日常に乱入して奇怪なパフォーマンスを繰り広げ、オブジェの増殖や逆に事物を覆い隠すことで平穏な日常を攪拌させ、「公的な私的空間」で「公」と「私」を、また「芸術のための場」と「日常」を幾重にも反転させ、ついにはまるで善意であるかのように装いつつ得体の知れない無目的な行為を町中で繰り広げ、不気味な存在感を示しつつ公共の中に溶け込んでいった。
そこには繊細さやユーモア、それに日常への愛着が伺えるるが、その背景には容易に着地しないでいることの覚悟を決めた、意味の宙吊りがある。作品がある意味に捉われてしまったら、それはたんなる作品になってしまう。たから私たちは、そのぎりぎりのところで生まれたいまにも動きそうで動かない「かたち」を、そこから安易に意味を汲み取ろうとせず、目を凝らしてしっかりとみつめないといけない。
美術館のコレクションは、半永久的に存在し、固定した価値を形成するとされるため、時折墓場だとも揶揄される。しかしコレクションは、そもそも時代や歴史背景、そして市場の偶然性に左右されるものであり、流動的なものでもあって、つねに絶対的な価値を示すわけではない。ときには墓場を掘り起こし、意外な地域や背景とつなげることで、新たな文脈が見えてくるだろう。
大地との繋がりが絶たれた失われた過去を嘆くのではなく、その恐れとノスタルジーを反転させ、再び確かな生を感じるための、未来の手段になるようなもの
そのとき大抵抜け落ちてしまう、いつもともにあるはずの愛を、幾重にも重なる複雑な層のなかでみせる。
芸術を無防備に開きすぎず、かと言って可能性を狭めてしまうことなく、いかに核を守ったまま伝えられるかということは、これからの美術館にとって重要な課題である。それは日本においては、政治的な問題を抱えた作品をどう展示するかというだけでなく、ポピュリズムとどう距離を保つかという問題でもある。美術館でも正面を切ってこうした展示をすべきだという意見ももっともだが、残念ながら公の組織のなかの美術館は、完全な表現の自由の場ではない。そのような場であるべきなのだが、正面突破をしようとすると壊れてしまう。かっこいいことばかりを言うわけにもいかない。しかし、表現とその受け取られ方の境界ぎりぎりを探り、あるいは暗に潜めて展開することはまだまだできる。芸術は、殊にそれを有効に行なうことができるものだと考えている。
意表を突いたはぐらかしや勝手な期待の裏切りの奥に、何か切実さが見え隠れしてほしい