Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#32
学外の方も聴講可能とします
日本の紙ですね。種類の豊富さ、クオリティは類を見ないと思います。海外のデザイナーが日本に来ると、みんな紙買って帰るし、紙に詳しいデザイナーになればなるほど、日本の紙を輸入して向こうで使うことをやってます。
私自体は紙を平面として捉えていない、つまり薄い立体みたいな感覚なんですよ。本とかだと立体じゃないですか。平面だけでは考えられない「物のレイヤー」を考えるという風にする
現代の多くのメディアのことを考えると、立体として最終的に定着させる機会というのが、どんどん減ってきているのかもしれませんね。例えば、世界中の芸術祭で出される作品のうち、映像の比率はどれだけ多くなっているのかという話にもつながるかもしれません。そもそも、作品が立体である必要性とはなにか、平面である必要性とはなにかを問うことになると思います。例えば、情報を早く伝えるという意味では、立体は映像には全然かなわないし、それはもう受け止めるべきだと思います。その前提のもとで立体をつくるからには、ウェブに象徴される流動的な状態では成立し得ないものを創造しない限り、立体としての価値を見出すことは難しくなるのではないでしょうか。
ここ20年くらいのインターネットの発達によって紙媒体の立ち位置が大きく変わってきている部分は少なからずあると思います。僕はその変化によって紙媒体がなくなることはまずありえないと思っているし、どちらかと言うと、情報を伝達するためのツールとアーカイブするためのものといった、役割の差別化がよりはっきりしてきたというイメージがあって、後世に残しておくべきものはちゃんと紙媒体にして残していくという考え方
その土地の紙って、その土地の文化紹介と相性がいいんです。最新号は伊豆半島の三島がテーマなんですが、富士山からもたらされる豊かな水と、その水でつくられる素晴らしい紙があって、それがそのまま本になっています。
デザインと現代美術の歴史は違うので、考え方も全く違ったりはするんですけど、自分の中でそれを繫げ、私生活の他の部分とも繋げ、それが「紙」というところに繋がっていくので、紙の在り方を、上手い形でアップデートできないかなとは思ってます。
動画をはじめとする歴史的なアーカイヴは、自分たちの年齢以上に昔に行われたことを定着させた記録です。僕らの制作においては、それら過去の動画を、単純に過去の時間軸の記録として見せるというよりは、どう現代と接続していくか、というところに意味があるかなと思いますし。
問題を的確に見つけ出し、解決していくことがデザインだという考え方があります。それは、たしかにいま起こっていることに関しては効き目があるかもしれないけれど、その「処方」を続けていると、数十年という長い時間のなかでは、視覚的コントロールの体系化や枠組みの呪縛という問題が生まれる。そして、その後には体制化されたデザインに対する反体制のデザインが誕生する。デザインの歴史はそれを繰り返してきたけれど、その往復運動に回収されないようなデザインがありえないか、と考えています。