Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#31
学外の方も聴講可能とします
私にとって美術作品について語ることは、作品が持つエッセンスを「共有可能なもの」にする作業です。丁寧な、親切なものにする。噛み砕く。そういうニュアンスですね。子ども時代、ボーリングをするとき、球がガーターにならないようにバーを出すことがありましたよね。私にとっての批評をなにかにたとえるなら、そのガーター防止装置のイメージです。
確かに、そもそもおもしろがり方など、誰も教えてくれなかった。《はじまるよ!美術館》の冒頭文の言葉を借りるならば、「ピカソ」のなにをわかっていれば「わかる」ことになるのかも、誰も教えてくれなかった。社会や他人の承認を得ることが正しさの裏付けだったし、とくにここ日本では批判されるような言動はしないことが美徳だったかもしれない。そうしておとなになるうちに多くのこどもたちは、「おもしろがる」ことを忘れた。
「目の山がこちらを見ている」という経験は、写真が透明なメディウムであり物質でもあるから可能になったもの
このように、写真家とは、自分らしい撮り方を開発し、それを徹底し、写真の並べ方を考える人ですが、そのうえで、どこかのプロセスであえて既存の選択肢を捨てた人、つまり「あえ」る人といえます。いわば、インスタグラマーが「映え」ならば写真家は「あえ」なのです。
わたしたち自身の「不幸」への態度をあらわにし、誠実に他者の「不幸」に向き合うことが可能かを問いかけている
クジャクの檻の前で「クジャクが写真の通りにならないね」とか言ったりするわけで、いわばここで、写真は剥製として機能するのです。
バンプ的天体観測方式
「あなたはなぜ山に登るのか?」と問われた登山家のジョージ・マロリーの名ぜりふ「そこに山があったから(ドヤ顔)」は、一般によく知られていますが、吉田さんの作品は、いわば写真で山を示しながら「そこに山はあるのか?」と問うようなおもしろさがあります。
つまりこの社会において、ファッション・イメージの手強さを認識しておくことと、ファッションと身体に対する態度のあり方を再考することは、この身体で生きるわたしたちの世界を心地よくする方法となり得る
というより、バルトの「プンクトゥム」という概念自体、「感受性エリート」的な能力に立脚しているような気がするのです。
ジェンダーのグラデーションのあいまいな部分を (まずは) 目に見えるかたちで体現するというヴィジョンと戦略
事実かどうかではなく、フェイクであってもその語り口や発信の仕方にわたしたちの関心が翻弄されてしまう
写真は早送りできるものではないし、濃縮された一瞬であるからこそ長く見ることができるのが魅力のひとつです。また、撮影にかかった時間が1/100秒であれば、少なくともそれを人が見る場合には、その100倍は時間をかけて鑑賞されるでしょう。
悩む出場者が顔に手を当てているので指輪などのアクセサリーに自然と目がいく
スライスされた世界を真横から見た層のなかに人物や家、木々などが描かれることで、平たい断面図のような抽象絵画がたちまち奥行きを持った具象絵画に見えてくる
「現実に手を突っ込むことができる現代」
人間の不在を巧妙に仕組まれた造形
「写されなかったひと」や「写されるべき美しさを持たない存在」を否定する邪悪なパワー
「だって」の用法
名前は知らないけど顔だけよく見るモデルの次に、知らない人の10年前の旅行写真が出てきたかと思えば、静謐なモノクロ写真が出てきて、最新のファッションシューティング(これは大体動画)が出てきて、その後に、イラストみたいな現代アートが出てきたり、「それってあなたの感想ですよね?」とか言われたり、アイドルが踊ったり、フェルメールのようなオランダ黄金時代の美術がふと出てきたり、そこからしっとりとした釉薬が美しいい器が出てきたり、漫画広告が出て来たかと思えば、輝く焼き肉が食欲をそそったりしますよね。
つまり、わたしたちが拒否するべきなのは「性それ自体」ではなく「ロール」の押し付けのほうだ、ということなのではないでしょうか。
作品のなかの「不在の存在」と自分自身を、「わたしたち」という同一の主語で結びつけて語ること
そもそも、カメラというアイテム自体が、ちょっと目玉親父的かわいさがある物体だなとわたしは常々思います。