Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#30
その日のコーディングを終えるとき
日常とプログラミングをつなぐ習慣「デイリーコーディング」とは? 第一人者に聞く | プログラミング教育ならバレットプレス
コードをスケッチと呼ぶ,素描のようにコードを書いて実行するクリエイティブコーディングのような活動の多くは,在る種の適当さや場当たり的な対処という意 味での tinkering(修理・改良のために小さな変更を加えること,いじくること)のような発想と試行錯誤の連続によって生み出されている。合目的性を一時的に手放すことで,書き手とコードの間に主観的で内省的な関係性を生じさせことができる。
お母さんのキルトは、時期によって作るものが変化しているよね? 最初の頃はメルヘンというかファンシーというか、ピンクやお花、かわいい配色を主題にした作風だったような記憶があって。そこからここ10年ぐらいのキルトはちょっと違う。手で触ったときの質感や、表現したいものが技巧的に変わってきているように感じるんだけど。<br /> (・・・) 最初は赤毛のアンのような古き良きアメリカのキルトみたいな感じだったじゃない。表現したいものが技巧的に変わってきているように感じるんだけど。
クリエイティブコーダー・高尾俊介 × 母・高尾久代 親子対談。“おかんアート”の裏側にあるストーリー|Tokyo Art Beat
コミュニティの形成とともにクリエイティブコーディングという言葉の定義は,商業的・機能的なアプリケーションやインタラクティブコンテンツの開発手法のような合目的性を重視するものではなく,個 人の表現や感覚,自由さや軽妙さに着目しながら行う創造的行為として,計算機科学の領域からコードを解放し,さらには文学的観点から捉え直すというより思想的定義へと移行した
僕は「ジェネラティブアート」や「ジェネラティブデザイン」というよりも「クリエイティブコーディング」という言い方がしっくりきていて。コーディングするという行為によって、自分自身の関心や、構文やテクニカルな発見があることが、自分にとって重要なんだと再認識しているところです。
NFTアートは芸術評価の場になり得るか。“未完”のGenerativemasksとデジタルアート・コミュニティ: takawo 【前編】 | SUB-ROSA
時間的連続の中でコードで表現することそのものに思考を巡らすことは,自ずと日常生活の中にコードに付随する表現的側面を取り入れ,位置づけ,再解釈することへとつながっていく。そしてそれはコードの原理を日常に,生活の原理をコードに持ち込むことに他ならない。祝祭の装飾のような「ハレ」のためのコードではなく,連続する日常での変化を機微としてとらえるような「ケ」を含んだコードをどのように書くことができるか。コンピュータと人間,両者の結びつきをコードを通じて触れ,見つめ,聴き,嗅ぎ,味わうような,ディスプレイから届く視覚的な情報を超えて,様々な感情や経験といった私的記憶をどうコードで表現できるか,コンピュータと人間の関係性を人文学的な見地から考えていくことが日常的にコードで表現していくことの本質であり,コードの複雑性や技巧的な優位性は背景となり,コードの書きぶりや,即興性,主観的な連続性が前景化する。
NFTの中でしか価値付けされていないとはすでにお伝えしましたが、それゆえに「作品」っていう言い方が適切なのかもまだ分かっていなくて。
ソフトウェア開発的な速度や効率,再利用性を重視する以上に,個人的の視点とコーディングやプログラミングに関する一般的規範や社会通念から,ときに自由であることを重視する「ライフスタイルとしてのコーディング」は,コードをリファクタリングするように,生活と生のあり方をも軽やかに書き換えていくものになるだろう。
プログラミング専業化にまつわる歴史的経緯もあってか,初期段階から女性やセクシャルマイノリティといった少数者が,コミュニティへ参加するにあたってのアクセシビリティが十分でないため,参入障壁が生まれるケースがいまだ多くあり,ギャップを是正する必要がある