Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#29
「Search, don't sort.」、つまり整理するのではなく、とにかくデータを全部突っ込んで、そこに接続できる状態があれば構わない、そのなかを検索するのだというGoogle的な創作態度
膨大に広がるネットワークの中で個人が取り組める範囲の有限性に直面しながら、その中に個別でもよいからなるべく具体的で、シンプルな実践のガイドラインを見つけること。
初期的な「計画」のみにとどまるのではなく、いかに「運用」していくかの知見や手続きを広く共有すること、さらに言えば「計画」と「運用」を切り離してしまうのではなく、「計画」しながら「運用」すること、「運用」のプロセス自体が「計画」となっていくことの重要さにつながっていく。
あまり意味がないけれど線が揃っていたり、共通性を持ったアイテム、きっかけを仕込むことで、人間がその都度意味を発生させる<br /> (...) <br />シンプルな共通性とズレのセットを沢山つくり、そこに勝手に場が生成される
あえてポスト・ヒューマンをそれ以前のヒューマンと区別するなら、それはヒューマンに起きた変化についてではなく(そんなものは存在せず)、むしろ技術媒体の精緻な分析と、分析にもとづく予測ないし現実に生起しているリアリティーの描出をとおして、人間が本来的にもつハイブリッド性について明確な意識をもつようになった状態をさすのだろう。そしてその意識を先鋭化することは、いままでの連載でも議論してきている、現代の公共性が所在するところの断続的ネットワークを乗りこなす強力なツールのひとつとなるように思える。
3次元の形を複雑な治具や仮設資材を浪費してつくるのではなく、あくまで2次元で経済的に組み立てたものを、吊ったり膨らませたりすることで生まれる形を、そのまま建築の最終形に生かしていく
私たちはどう自覚していようともサイボーグであり続けるし、その系の中で入出力をかけ続けていくしかない。しかし、リッドが指し示すように、私たちは常に間違え続けてきたし、逆に間違えることができ、急速に、完全に、不可避的に進行する変化について自覚的であることもできる。
身体はやはり圧倒的に多様な情報を検知するセンサーで、同時に意識的にも無意識的にも検知された情報は即座に伝達され複数の身体で共有されるのであり、しかし情報が入ってくる度に個々の身体では個々の新たな情報が再生産されてもいて、そうして共感覚と誤解がないまぜになった個であり群である身体の融け出し/癒着/分裂は日常で同時多発的に起こっている。
読み取られる場での「情報」たりうる誰かにとってしか重要でないような肌理を幾重にも重ねてみるようなこと、誰かのイメージにアクセスするという意味では必ずしも場を変える必要すらないかもしれない
複雑さを一旦キャンセルして別のものに置き換えるのではなく、複雑さをそのまま取り扱い可能な情報に置き換え、その系の中に入り込み、内側から制御や変化を与えていくアプローチ
都市に存在する多くのものや流通している情報は、受け手にとって実にちょっとした情報の補足によりその意味合いを大きく変えうるということ
いわゆる建築や都市の設計やプランニングでは、形式知化さえできていないものの、あいまいさの中で主観的に立ち上がる日常空間の様を、建築や都市を経験する一人ひとりの目線まで下りていき、想像力を働かせることで何とかつかもうとする。テキストデータはその作業に、より冗長性や拡張性のある意味の奥行きを与える資源になるはずであり、計算を介してそのテキストデータにアクセスすることは、その奥行きの細やかな機微をそのまますくいあげる道筋に なりえる。
何時にどこに行くかさえ決まっていれば、その過程をどう選んで一日を過ごすかは、かなりの部分、その場その場の検索によってどうにでも構成できるようになった。おおまかな軸のまわりにいくつもの可能な選択肢がぶらさがり、折り重なった日常のイメージが形成される。概念の定義でさえも、検索はそれを複数の別々に書かれ編まれた情報の、境界のぼやけた集合体として認知するようなものの捉え方をデフォルト化してきた。