Kyoto City University of Arts

Advanced Design Studies

PoolRiver

プールリバー


#22

髙木遊

ぼくは"ここ"にいる|A Curate-In-Charge

開催日時:

2021/5/25(火)

13:00-14:30

開催場所:


略歴:

髙木遊 1994年京都生まれ。2020年東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科修了、ラリュス賞受賞。東京、京都を拠点に活動中。 ホワイトキューブにとらわれない場での実践を通して、共感の場としての展覧会のあり方を模索している。現在、HB. NezuおよびThe 5th Floor ディレクター。 過去の参加展覧会に「P – Powers of PLAY–」(東京, 2018)、「 FUKAMI - Une Plongée Dans L’esthétique Japonaise - 」(パリ,2018)、「生きられた庭 / Le Jardin Convivial」(京都, 2019)、「The Drowned World Anchor /沈んだ世界のアンカー 」(東京, 2019)、「Allscape in Hall」(京都, 2020)、「髙橋銑二羽のウサギ」(東京、2020) 2012年4月−2017年3月京都大学総合人間学部創造行為論専修2017年4月-20年3月東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科 アートプロデュース専攻 キュレーション専修 長谷川祐子に師事2015年9月-11月 神戸ビエンナーレ 運営スタッフ・通訳(仏語) 2015年11月-5月 KYOTOGRPAPHIE 2016運営スタッフ, KG+ 2016 アシスタント 2017年9月 第7回モスクワビエンナーレ、リサーチアシスタント2018年1月  『ジャパノラマ:1970年以降のアートの新しいヴィジョン』リサーチアシスタント(メッス、ポンピドゥ・センター・メッス別館)2018年7月 『FUKAMI - Une Plunge Dans L’esthétiqueJaponaise』キュレイトリアルアシスタント(パリ、ロスチャイルド館) 2019年5月 『生きられた庭/LeJardin Convivial』(京都、京都府立植物園) 2019年7月 『Intimate distance. Masterpieces from theIshikawa Collection』キュレイトリアル・アシスタント(パリ、モンペリエ・コンタンポラン) 2020年2月『Allscape in Hall』(京都、ArtistFair Kyoto) 2020年6月 『Dyadic Stem』(東京、The 5th Floor)2020年9月 『二羽のウサギ/Between two stools』(東京、The 5th Floor) 2020年12月 『されど、いつも死ぬのは他人ばかり/D’ailleurs, C’est toujours les autres qui meurent』(東京、The5th Floor) 2021年1月  『次元の衝突点:35°42'59.0” - N 139°46'07.4”E - 36.0892”AAFt.』(東京、The 5th Floor)

関連テキスト:

「ナビゲーション」をとおして、あらゆる事象に紐づく時間/空間にあらたな物語を紡ぎ出すことを試みるプロジェクト

展覧会によせて

植物園=庭における髙木の声は植物や作品、作家、鑑賞者を区別しない。「ナビゲーション」は徹底的に平等である。これを出発点に考えると、彼のテキストに登場するタームが問いや目的ではなく、出発点であり方法であることに気が付く——そしてまた平等を志向することが、展覧会が問いや目的を持つことを困難にすることをも露呈する。 (・・・)  平等に傾倒するキュレーションは、展覧会という、多様な作家/作品の集合によって構築される芸術の形式において——彼の倫理に則って個別の作家/作品の自律と自由を認めるとき——根本的なパラドックスを発生させる。そのパラドックスは展覧会が問いや目的を持つことを困難にする。しかしだからといってパラドックスを解消することを求めたり、否定するのは短絡的すぎるだろう。 (布施琳太郎)

パラドックスのパロディ。布施琳太郎評「生きられた庭」展 |美術手帖

「ガイドツアー」は、個別の作品解説に加え、京都府立植物園の歴史や特色ある取り組みについても多く触れるものであり、個人的には後者の方が興味深かった。園内のさまざまなエリアを巡りながら、この場所に堆積した歴史の重層性とともに、「庭」のもつ多義的な意味(境界画定、人為的管理と「自然」の同居、多様性の共存)が語られていく。(高嶋慈)

生きられた庭:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

髙木遊は、人間のコントロールを逃れたところに形成されうる空間を、ジル・クレマンの『動いている庭』(山内朋樹焼く、二〇一五年、みすず書房)の読解とみずからのキュレーターとしての実践を踏まえて描き出そうとする (・・・) クレマンの「動いている庭」の実験が、六〇〇〇平方メートルの「放棄地」で始められ、人間の介入が極力排除されていること、さらにクレマンを中心に行われた展覧会「惑星という庭」(一九九九年九月―二〇〇〇年一月)で展開された「実験の庭」のテーマの一つが「自然にゆだねる」で、「人間の過剰な介入により失われた風景が、自然のちからにまかせることで、もともとの生物の多様性をもって回復した事例や、都市の開発の中で取り残された「放棄地」をあえてそのままにしておくことで、生物多様性が育まれる「庭」および「放棄地」の森林の創出を画策するプロジェクトが紹介される」といったことである。(篠原雅武)

篠原雅武「人間世界と事物の世界の「あいだ」」,『現代思想』青土社,2020-03,48,pp.124-135