Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#15
美術は知識の継承の営みだと考えていましたが、作品に込められた作家の知識や経験は本を読むようには読み解けないわけです。本や論文であれば、その検証や継承が可能です。だからこそ書くことに憧れがあり、美術とは別の知識の継承の在り方として興味を持ちました。 (・・・) 戦後の彫刻史にとって重要な出来事を問題提起するには、モノがないので、書くしかない。銅像に限らず、廃仏毀釈などによっても彫刻は失われてきた過去があるので、やはり書くことで検証するしかない部分があります。そうしないと、存在しなかったことになってしまう。 (・・・) 自分がつくったものがどういう思想に結びつくのか、どういう思想を喚起させるか、どのような思想の教化につながるのか、よりも「かたちをつくり出したい」気持ちが作家自身の中で重視されてしまう。言い方が難しいですが、戦後の彫刻家たちはそのような戦中の彫刻家の在り方に対して反省・検証したのか、と疑問に思うところがあります。素朴な「つくり続けたい」気持ちはもちろん尊重されるべきものですが、時勢によっては非常に暴力的なものになる危ういものだと思います。特に彫刻は他の芸術とは少し違う面があります。
インタビュー(3) アートの現場から 小田原のどか(彫刻家) | 小特集:現場から学会に期待すること | Vol.30 | REPRE
「本書がおもに焦点を合わせるのは、近代の黎明期、そして戦時下における日本の彫刻の姿である。とはいえそれは、いわゆる「日本の近代彫刻」の「お勉強」にとどまるものでは毛頭ない。本書の巻頭言として書かれた「近代を彫刻/超克する」が明言するように、その根底にあるのは、彫刻を語ることが「この国の近現代史に光を当てることに他ならない」(17頁)という切なる問題意識だ。 」( 星野太 )
彫刻は素材も技法も来歴も異なるものの総合ですから、定義が非常に難しく、「彫刻は〜ではない」という仕方で、外部をつくり出すことで外郭を保とうとする否定神学的な傾向があります。私自身はそういった排除と切断による自己規定とは別の方法を採りたいという思いから、「絵以外のすべては彫刻である」 という考えを持っています。
彫刻はほかの美術の領域に比べて研究者が少ないのです。 研究する人も少なく、彫刻家自身も書き残さなければ、後世に残る手がかりがますますなくなってしまいます。
名前を刻むという普遍性があるように思われる方法も、ある場所では良しとされても、まったく否定されることも起こりうる。母子像という図像も、歴史的背景や宗教的立場によっては、受け入れ難いという反応が出てくる。つまり、現状、これが正解だという記念碑の造形はないということです。さまざまな先行事例を参考にしながら検討を重ねていくしかありません。
人間が人間を排除するために芸術を用いるということには、身がすくむような恐ろしさを覚えます。そういった視点を持ち続けたいです。 (・・・) レーニン像やフセイン像の破壊に顕著ですが、ある人物をその権威ごとかたどった具象彫刻に対して、首に縄をかけて引き倒すといった方法で台座から引きずり下ろし破壊することが、自分たちの新しい社会を自分たちでつくることを象徴する儀式やメディアパフォーマンスと化しているような現実 (・・・) 日本において彫刻の破壊は、人為ではなく、地震によって起きている。
重層的な意味の重なりや背景を有し、何かの象徴であるという理解は、美術空間を一歩出てしまえば共有されることは難しい。 (・・・) 人類の惨禍にとって彫刻はどのような存在か。この問いは美術関係者だけのものではない。広く開かれた「思想的課題」であるはずだ。
原子爆弾によって一瞬にして肉体が失われ、影だけが残される。そのようなことが起こった場所で、どうして人の似姿を再現できようか。しかし現実には、長崎は彫刻にあふれている。 (・・・) 必要なのは、沈黙する彫刻に言葉を与えていくこと