Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#14
まず僕の関心は、「いかに新しい音を聴くことができるか?」というところにあるんです。そして、それに対して自分の立場からアプローチしようとしたときに、人間には「耳がある」ってことに一度立ち返る必要性があるなと。ピュアに、音の情報を聴覚が認識する話をしたところで、その耳は何年か社会を生きてきた耳だし、社会的なコンテキストも背負っているわけじゃないですか。 (・・・) 「そこに音楽がある」っていう状態をどうにかして提示したいと考えていて。たとえば、音が出る「場」から考えたり、音が出る「もの」から考えたりするサウンドアートもそうですけど、それとはまた違った方法で「音楽がある、そしてそれを聴いている耳がある」っていう状態を知覚させたい、多くの人に音や音楽を知覚させたいというか。僕がやっているのは、それを「音楽」で目指す実践ですね。 (・・・) ある曲が流れて、でもその曲がなかったかのように振る舞われたりする
音楽はいま音楽である以前に「演奏と映像のなんらか」的な見立てであることが求められてる。音楽をそこから自律させてそれ自体について考えるためには、いわゆる「シーンづくり」とは違う、もっともっとわけのわからない公共性や関わりをつくることが必要だなと。そしてそれはミュージシャン側の役目でもある。
これは聴き方についてなんですけど、何らかの曲の何らかのフレーズがあったとして、そのフレーズを〈音響〉として聴くか〈音韻〉として聴くかを、精密にではないにしろ、ある程度コントロールできるようになる というか。アカデミックな作曲の勉強をすると、モチーフみたいなものに敏感になって、フレーズからパターンを抽出したくなる。要はストラクチャーを聴き取りたくなるんですが、電子音響はテクスチュアルな要素が強いのでそう簡単にはいかない。そういうテクスチャーとストラクチャーの差異を知覚しようとする、ある種の葛藤としての聴取方法
もう一度、電子音を難解なものと考えよう―アカデミックな新鋭、網守将平が突き詰めた斬新すぎるポップ・ミュージック論 | Mikiki
「街を車で走り抜ける、というよりは、街を捉えたインスタグラムのタイムラインが複数同時に無秩序に混ぜこぜになって表示されることで街を体験する、という現象に近い。アンビエント・ノイズが断続的に、そして耳に馴染みやすいメロディが勃発的に、音楽に登場し全体の一部としてまとめられる。どこを取っても、時間の流れは混乱している。古いテレビドラマにメロドラマチックな雰囲気を足すために使われていそうなオルガンのコード群が一定して展開されている背後で、ジェットコースターのようにリズムは忙しなく緩急しているのだ。トラックの最後の1分間は何らかの完了を示すものではない。むしろ増えて飽和状態になった音のインプットが、色鮮やかな無数のドローンとなって飛び去っていき、その後にレコードの針が奏でるようなパチパチパチという音が 残される。」(エミリー・ビック、訳:近藤司)英The WIRE誌・ISSUE 149・January 2019 この作品はアルバムという形態を取りつつトータリティを志向していないんですが、そんな作品でも突発的にデジャブ感みたいなものが感じられるとすれば、「トータリティを志向しない」というある種のレギュレーションみたいなものに、無意識に自ら反発して、テクスチュアルなレベルにおいて統一感をもたらしにいった