Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#11
私たちがセーラームーンを見ていたとき、同世代の友達はみんな、セーラー戦士になれると思っていました。主人公は泣き虫でおっちょこちょいですが、キャラクターがそれぞれ違う能力を持っていて個性があって、みんなで協力することで一人ではできないことを達成していました。私は今でも友達と協力しあって、なんとかうまくやっていくということを信じています。 それは、私たちの前の世代とは違うと思います。例えば、わたしの母は「女の子が頑張る」っていうと、『エースをねらえ』や『アタックナンバー 1』を例にだして話してきます。それは 精神的にも肉体的にもガンガンしごかれて、辛くて泣きながらも頑張って最後に勝利するとい うスポ根マンガです。それも、たった一人のコーチ ( 男性 ) がいて、彼に才能を見出しされ育てられて成長するって話 ! 一方で、セーラームーンに出てくる男性といえばはタキシード仮面 ですが、彼はバラを投げるだけの優男。ただ同時に、『家なき子』のようなドラマもあって、 それを模倣するように学校で一人の女の子が多数の女の子にいじめられるという構図もありました。
ともすれば「早く正解が知りたい」とわかりやすさに飛びつく場合もありますよね。でもわからないなりにも、今は正しいことは言えないかもしれないけど、ちょっとずつ考え続けるということを表現していきたいです。 (・・・) はっきり分かれているわけじゃなくごっちゃになっていて、網目のように折り合っているような感覚 (・・・) 私は、生身の「世間」と相対する場所を信じたいんですよ。そして、むしろどれだけ誤読されるか、っていう余白があってもいい
「 どれほど闘うフェミニストになりきったとしても、あるいはまた、どれほど退屈な女を演じたとしても、そこに遠藤自身の実体はない。実のところ、フェミニズムという思想への評価さえ、まったくわからない。だが、その「わからなさ」は、表象と実体を同一視しがちな私たちの偏った知覚のありようを、これまでにないほどわかりやすく示しているのである。 」 (福住廉)
❝ 🍋:パレルモはほとんどが石造りの古い建物だと思うんだけど、ここの会場もそうで、少し装飾的な内装だった。入った最初の部屋には映像が置いてあって、黄色いレモンが映ってた。
❝ 話がそれますが、私は人とご飯を食べに行くときに、人が選んだものを一緒に食べるのが好きです。反対に、「何食べたい?」と聞かれることが得意ではありません。なんでも良いときがほとんどだからです。なんでも良いというのは、なんでも楽しめるということです。「何が来るかな?」と予期できないことが楽しいので、自分で選ぶことをなるべくしたくない。相手が選ぶものに振り回されたいと思うからです。 (・・・) 多様な性のあり方を許容し、お互いを所有物ではなく、話し合える個人同士と捉えるということ (・・・) 折り合いがつかなかった時に、性格の不一致などを理由に相手を諦めるのではなく、原因をルールに求め、改変しながらいつまでも遊び続けることを選んでいたいです。
うずらは、日本で唯一家畜化された動物と言われていて、産卵量がすごいんです。そして産んだ卵にはまったく目もくれません。人間の都合で自分たちの姿をかえられてしまい、人間がいないと生きていけないのに、うずらはうずらとしてノホホンと生きているんです。抑圧された制度反対! とプラカードを掲げることもしません。なんでこんなに自由なんだろう、と思うようになりました
うずらを家で放していると、どこでもうんちをするので大変です。 (・・・) 一方うずらには、ありのままという選択が存在しません。うずらは制度を否定する言葉を持っていないからです。元はと言えば家禽の流通に乗ってダンボールでうちまで運ばれ、食べられる運命だったのが、私の気まぐれで飼いうずらとなり今も生きている。環境に対して否定も肯定もせず、その日その日をただ生きている。そんな悠々としているうずらに私が抱くのは、憧憬と畏敬です。 (・・・) 姓の役割交換、モノガミーへの風穴、共有財産の分配、これらを自分たちの倫理規範に基づいた軽やかなルールとして設定し、今後の婚姻生活を遊び場へと変換しようと試みます。軽さ、快楽、そして転化を軸にしたルールです。それは、今ある制度を権利拡張や抑圧からの解放によって改善していく方向とは別の手段です。制度を遊びの対象に変換するのは、ありのままではなく、あるがままで生きているうずら的あり方への敬意でもあるのです。