Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#10
世界というわけのわからない他者を怖がり距離をおくのではなく、笑って愛することで、生の可能性が豊かになる
展覧会とは、ものを並べる仕事だと思っています。時空間に並んだものをどうしても鑑賞者が結びつけないといけない。結びつけるという、インスタレーションや展示に要求される意識が、その対象自体をどんどんずらして落下させていく。たぶらかされていく。
あらゆる意味とはかくして読み取られるしかない。意味とはつねに既成事実であって、そうしてすでに密輸されたものたちがひそやかに、ドメスティックに流通している。
カラオケは愉快だ。カラオケボックスは言うことの聞かない空間で、エコーは鳴るだけ鳴るし、飲み物はどこかでこぼれている。歌声で話しはぜんぜんできなくて、隣の人の声もきこえずなんども耳に手を当てて、まちがっていない範囲で笑う。
いずれの観客も同じ条件のもと同じ順路に沿って全てを見るという鑑賞経験が、それぞれの鑑賞者ごとに異なった鑑賞経験となる、かつそれが無作為や単なる偶然・タイミングから与えられるのではなく、鑑賞者自身の行動・選択に呼応して展示のシークエンスが分岐して固有の鑑賞経験となるようなモデル
「銀なら五枚、金なら一枚」(森永製菓チョコボール)というフレーズも、複数と単数の問題ですね。金のエンゼルならば一枚で交換できるけれども、銀のエンゼルだと二、三枚が手元につねにある。
大岩雄典『わたしはこれらを展示できてうれしいし、あなたはこれらを見てうれしく、これらは展示されてうれしい』ギャラリー・トーク
それはつまり「星とわたしが同じになる夜」であり、あるいは何もかもが同じになるナルシシズムの氾濫
最速プレイというものそれ自体が秘教的であるため、鑑賞者が没入しやすいのはストーリー、および同一性が錯綜したキャラクターのほうなのだが、しかしその「非同一性」および「あからさまな逸脱性」から、キャラクターの人格characterに没入することは妨げられ、”自律移動する”キャラクターが、ゲームの内側から(ネオのように)構造を食い破り、つまりプレイヤー側=ゲーム外ではなく、むしろゲームの深部、下-ゲーム、プログラムレベル、いわばゲームの「現実界」すれすれで同一性を組織し、「想像的な」「象徴的な」現れでの破綻を飲み込みながら活動しているさまを、”客体として”観る、という経験
生放送のコマーシャル直前に突然まくしたてるタレント。
「初入選のお二人は、これまでの最高齢と最年少ということだ。」