Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#12
テーブル(table)じゃなくてタブロー(tableau)だよ。
小学6年生の時に身長が178cmくらいあって、中学校に入ってから、運動部とかに誘われる事が多かったんですけど、全部断って、美術部に入って、「なんであんなデカいのが美術部にいるんだ?」とか言われながら中学、高校と過ごしていましたね。
うーん、でもちょっと絵解きっぽいというか、コンセプトに対して描かれたものが必要最低限な感じがするんすよね。描く事でコンセプト以上の事が起きていない感じというか。塗りかたも平面的だし。もっと何かのモチーフを描くとか、ブラシのストロークが見えてもいいのかなと思うっす。
プレイヤーとして没入したと思ったら、過去の自分にそれが引き剥がされてしまう
言うまでもなく、我々はテクノロジーと出会うたびにそれについての知識や経験が内部に蓄積されていきます。そうして蓄積された知識や経験が日常生活の中に溶け込み、そのかたちを失ったとき、テクノロジーへと拡張された精神や身体が立ち上がります。
映像っていっけん純粋な視覚だけのお化けみたいな感じだけど、実際にそれが目に見えるようになるために、モニターとかプロジェクターとかの装置が必ずあって、めっちゃ身体的なんすよね。その身体性を彫刻として愚直に使っている感じっすね。
ニコニコ動画で自我が溶け出すこと、ありませんか?Photoshopを使っているうちに、みるみる時空が歪むこと、ありませんか?Twitterのサーバーが落ちていると、なんだか体調が悪くなること、ありませんか?
例えば音楽館というメーカーが制作していた『Train Simulator』という鉄道の運転を体験できるゲームでは、実在する車両の先頭にカメラを設置し、そこから撮影した実写映像を使ったゲームだったんです。プレイヤーが列車の速度を上げる操作をすると、映像の再生速度を上げることで速度を表現していたんです。その身も蓋もない作り方に驚いたのを覚えています。確かに、当時の技術ならば3Dでリアルタイムに動かすよりも、あらかじめ撮影した映像を使った方がリアルな表現になるんですよね。
ビデオゲームが表現の対象となれば、アーティストはゲームの世界の風景をよく観察し、そこに隠された意味や概念を抽出しなければならない。だからアーティストたちは、ゲームの風景のなかで、ふと足を止める。 ゲームをプレイすることは、現実の世界の私がゲームの世界へと没入することだ。没入することは、ゲームにあらかじめ用意されたルールや行動原理に盲目的に従うことであり、それはゲームの世界の自律性や持続性を隠してしまう。だから、コントローラーを置き、プレイすることをやめなければならない。 そのときゲームのなかの世界は、私たちの手から離れ、私たちの世界と同じように、並行して存在しはじめる。そして、アーティストたちがそのゲームの世界のなかで足を止め、風景に隠された意味や概念を拾い上げようとするとき、私たちの世界とゲームの世界は、プレイすることとは異なるやり方で結びつくことだろう。そして、彼/彼女らは、ビデオゲーム以後のアーティストになるのだ。
ゲームアートにおけるゲーム世界の自律性 – ミルトス・マネタスとビデオゲーム以後の芸術 / 谷口 暁彦 | ÉKRITS / エクリ
Unityを使ってエッセイを書いたり、映像作品を作ったり、ごく一般的なメディアとして、表現したいことをごく普通に表現できるんじゃないでしょうか。絵画や小説のように、ごく当たり前のメディアのフォーマットになるということです。最初の実験的な段階を超えて普通になってくると、その中で表現が醸造されていくような段階があると思います。