Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#3
一般的にキュレーターというと特定の美術館に所属して作品の保存や収集、調査研究、展示などを行う人のことを指しますが、インディペンデントキュレーターは、どこかに所属することなく、様々なところで展覧会の企画などをします。
私たちはしばしば、なぜ人間には「人格=ペルソナ」というものが備わっているにも関わらず、人間を非人間的に扱うのか、と自問する。まるで人をモノのように!と私たちは怒る。しかしエスポジトによれば、この問いや怒りはそもそもにおいて間違っている。むしろ、人間に人格というものを付与したからこそ、その人格の多寡あるいは有無によって人間をモノへと翻訳する回路が生じているのだ、とエスポジトは喝破する。ここには近代そのものを脱構築する可能性が備わっているように筆者には思われる。
「嫌いだけど同時代に存在している」ということを肯定していくことを考えていきたい。
ドクメンタは5年毎に行われるイベントで、カッセルの町全体で行われるのが特徴なんですけど、それを目の当たりにしたときに、ヨーロッパの人たちが大切にしている「公共性」って、こういうことなんだろうなと。 口当たりや耳触りの良い言葉としての「公共性」ではなく、そこには確かに「公共性」としての実体と、それに対する誇りがあった。その上で、形式とユーモアどちらも持ち合わせていた。
「他者の解像度」をあげる実践
同世代の人たちが就活をしているときに、島の人と夜釣りをしながら、エイが釣りの邪魔をしてくることを学んだりしていました。
岡山シティミュージアムでは、特別展「スター・ウォーズ展 未来へつづく、創造のビジョン。」が開かれていた。鑑賞ルートの最後にある物販コーナーは、ちょうど岡山空襲展示室と同じフロアにあり、ダース・ベイダーやストームトルーパーといった悪役までもが、様々な「お土産」と化して整列されている。ここでは、ふたつの戦争は対立していない。
個々の作家を空間的にリンクさせながらも自律させ、非単線的でありながらもキュレーターの意志が蒸発しない複数性、その空間的文体。
自分の作品の前後に違う作家の作品があったり、自分の作品だけ見てほしいのに背景に別の作品が見えたりすることによって、必ず偏りが生じます。作家が期待する本来の状態では見せられないかもしれない。しかし、それを言い訳ではなくむしろ鑑賞/創造の条件に変えて、視界に入る他の作品込みで鑑賞する。
多重レイヤー構造化とその同時解析にもかかわらず/それゆえの、物質の偏愛という特徴
白いカーテンごしに覗き見るふたりの行為にはしっとりとした切実さが発生している。
僕はキュレーターといっても、美術館やギャラリーなどに属さないインディペンデントのキュレーターなのでこの方面への「自立の技術」みたいなものには深く関心があります。
作品とその研究が備えている社会性や公開性の最大化、質の向上を目指すとき、「会期」と「入り口」が前景化する。
失敗/不完全/不在から始めなければならないという態度の潔さにすぐさま感じてしまう「欺瞞」と距離をとり、余白を設定する
次に進むだけではなく、帰ってこなければならない。さらに、つくる道はかつてあった道とつなげなければならない。「制度批判はもう飽きた」から無視するのではなく、それを所与の条件としたうえで通り過ぎなければならない。問われるべきは、通り過ぎるにあたっての所要時間です。
「見ようとしなければ見えず、聞こうとしなければ聞こえない」作品を配置することの是非は、端的に、そのような条件下にあることを鑑賞者に気付かせる設計の問題にすぎない。
線を引く行為がチョークなしでも成立するように、「光のない。」を暗唱する行為もまた、発話内容の意味自体が伝達しなくても成立する。
完成した後になってなおも/ようやく到来するひとつの可能態、「なんであれかまわないもの」。移動性を付与することでアウラ(物質と空間の一致)の喪失に加担する「額縁(オリオール)」を、そして、完成した世界でのあらゆる表現行為の否定において出現した「インスタレーション(ちっぽけな位置移動)」を、制度論ではなく存在論的に、私たちはとらえ直すことができないだろうか。