Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#2
都築の作品が、ベクター(線=形相)から出発しながらも、画面を埋め尽くすビットマップを作り出してしまったように、実際には色彩と線の対立は、人間の認識のモードの違いであり、実際の作品上では、それぞれの要素を同時に含みこむことができる。よい線とは、実は色(階調)としての複雑性を持っているが、にもかかわらず線と認識される線であるように。あるいは、絵の具でありながら、像として見える、認識できる。線でありながら、像であり、生きている、ということがありえるのであり、最良の絵画は、それらを含みこんでいるのではないだろうか。(gnck)
彼は武蔵野美術大学の芸術文化学科の卒業生で,卒業論文で「創造の欲望をめぐって—キャラ・画像・インターネット—」という文章を書かれていまして,実はこの論文がかなり重要なんですね.内容的にはJNTさんと梅沢和木さんという,2人の絵師さんの作品論を中心にしながら,その背景にあるお絵描き掲示板の問題に迫ったり,pixivや「カオス*ラウンジ」の問題,あるいはそれらの登場以前からあった,お絵描き掲示板や普通のイラストサイトでの問題点やコミュニティについて記されていて,なおかつ,そこで生み出されている作品の受容のされ方や作品論にまで迫ったものになっています.「カオス*ラウンジ」の問題がこれだけ巷で騒がれている中において,具体的な作品論にまで言及する人はあまりいなかったわけで,そういう意味でも重要な論述ではないかと思います.(谷口)
あはははは.いや,すごくいいんですよ! 何でかというと,ジャギってるし,鉛筆ツールで描いているから,筆跡がきれいに残っていて,色の重ね方,絵の作り方の「単位」が見える.さらに言えば,オブジェ的というか,ヴィネット(Vignette)的なんですよね.ヴィネットって必要最小限の単位で風景を作りあげるじゃないですか.そういうふうに,透過していることによって,必要最小限の描画で,モノとして,ヴィネットとしての画像がある,みたいな感じがするんですよ.(gnck)
アートと普通のカルチャーで何が違うのかというと,それって単に「歴史として,きちんと整備されているか/いないか」だけ,「歴史的な視座を持っているか/いないか」という違いだけではないかと感じて,「じゃあどういうことが必要なのか」というと,やはりこうしたカルチャーのアーカイヴ化が重要なのではないか.(・・・)文化をきちんとアーカイヴにしていくこと,文化を歴史として言葉にしていくことが(当人たちの意識はどうあれ)必要な気がします. (gnck)
ここまでの議論は、低解像度、高圧縮率、データの破損と、メディアとして高級なものでなく、むしろ貧しいものばかり扱ってきた。なぜならば、まさに貧しい状況でこそ、そのメディアの原理的な特性が明らかに示されるからだ。(gnck)
ドローイングやキャラが美しいのは、描線であることが明らかなのにもかかわらず、それが像として現前しているからである。ドット絵が美しいのは、それがピクセルであることが明らかなのにもかかわらず、それが像として現前しているからだ。最小限の手数で、しかも十全に成立しているものは、奇跡なのだ。愚鈍の成果として逐次性を積み重ねまくった結果、リッチな画像が得られたところで、そこに個人や天才はいない。gnck)
芸術には目の芸術と、概念の芸術があり、目の芸術における「革新」そのものを抽象化し、それ自体を目的として概念の芸術が立ち上がってきた。しかしその概念の芸術における批評性は、視点を変えれば「頓智」とか「ナンセンス」として呼び習わされてきたものだ。それを「(概念の)芸術である」と思わせるためには、(目の、あるいは先行する)芸術の形式を再演しつつ、それとのズレを見せつける必要がある。(gnck)