Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#51
それは、効率性や利便性、そして無限のスケールアウトを追求する大通りの論理とは全く異なる価値体系である。したがって、このイベントの成果は、来場者数や経済効果といった量的指標では測れない。むしろ、参加者や住民の心にどれだけ寛容さが育まれ、路地の転用可能性への想像力がかき立てられたかという、質的な変化にこそある。
現在において、選曲という行為は、カラオケやスナックでもみられるが、そこでは歌うという行為が主な目的であることに加えて、場を共有する人々が比較的近い関係性であり、場の目的を共有しているという特徴を有している。それに対してジュークボックスの選曲は、所与の空間、つまり公共の要素を備えたローカルのスペースにおける消費でありながらも、空間へのミニマルな介入とも言える。喫茶店で読書やおしゃべりをしながらでも音楽を聴くことが可能であるように、音楽を聴く行為は何かをしながらでも可能である。物理的に音楽が聴こえる範囲は、音楽によってゆるく結ばれた場といえる。
私は本稿で単に官僚性を放棄したアナーキズム的行為を想起させたいわけではない。重要なのは、詩的テクノロジーを立ち上げるためのインターフェイスとスケールである。つまり人々の能力を引き出すこと、気軽に利用できること(アクセシビリティ)、寛容性を育むこと。
情報過多の時代において、不特定多数ではなく、少数でも深く心に届く「小さな出版」が持つ力は、大通りの論理とは異なる「狭くて、深い」ことに価値を置く路地のあり方と深く呼応する
このような時代において、ZINEやアートブックを自らの手で制作するという行為は、単なる懐古趣味ではない。それは、物質性や身体性を伴う、明確な「態度」の表明として理解できる。筆者は制作に行き詰まった学生にしばしば「パーティを開くか、ZINEを作ろう」と伝える。
パーティという遊戯性を通して、日常を脅かす支配的な力に対する飄逸性を備える。
女性は流れるような長い髪に鉛筆で描いた眉、口紅とマニキュアを塗っていた。これはナチスのドイツ女性は「純粋」な美しさを持ち、髪はハイジのような三つ編みにするべきという当時の規律に対する抵抗である。踊り方も苛烈であり、腕を組み、飛び跳ね、体力を消耗するほどジタバタするといったものであった
叩くという身振りは、これ以上なく単純でありながら、驚くほど豊かな情報量を内包している。叩く主体と叩かれる客体の関係性、接触点の微細な位置、運動に加えられる速度と質量、そして腕が描き出す軌道とその減衰。そこから生まれる音は、ある程度は予見できるにもかかわらず、常に僅かな裏切りを伴って私たちの耳に届く。
私は本稿で単に官僚性を放棄したアナーキズム的行為を想起させたいわけではない。重要なのは、詩的テクノロジーを立ち上げるためのインターフェイスとスケールである。つまり人々の能力を引き出すこと、気軽に利用できること(アクセシビリティ)、寛容性を育むこと。詩的テクノロジーが醸成されるためには社会の寛容性が不可欠となる。寛容さを獲得するにはそれを促す何気ないインターフェイスについてより様々なアプローチを試みる必要があるだろう。
本巣駅での休憩中にあることに気づく。貸し切り車両の後ろにはもう1車両が接続されており、そこでは日常的な利用の乗客たちが乗車しているのだ。この扉1枚にどのような空間の差異があるのだろうか。クラブトレインに乗車していると、スタッフ、乗客たちとの共犯関係のような感情が芽生えていく。それは外からクラブトレイン車内を物珍しそうな視線が向けられることにより、さらに強化されていく。そうした車内一体がクルーのような状態へ変化していき、復路へと向かう。