Kyoto City University of Arts
Advanced Design Studies
PoolRiver#7
物質ちゃんはすぐに道草しようとするので、わたしはいつも一番うしろを歩きます。物質ちゃんが置いていかれないようにするためです。
山本悠くんには確実に演劇がはじまっているのに、街を歩いている人には演劇なんかはじまっていない。そのふたりが会話をしている、その様子を僕たちは遠くから眺めている。覗きのような悪趣味さがあるけど、僕たちからあまりにも遠く離れた場所での演技は、マクドナルドの店内の BGM のからっぽな陽気さとあわさって、自分とは無関係なような気もしてくる。そうしていると山本悠くんは女の子についていってどこかへ行ってしまって、役者のいないただの交差点の様子を、いや、舞台を、演劇として見つづけることになる。(S.)
例えば映画を見て、「これは僕のために作られた映画だ」と勝手に思うことがありますが、そんなわけはありません。でも、作者の思いとは関係なく、他の人と関係して価値が生まれることはいいことだと思っています。絶対に相手に伝わらない思いにも、意味があると思います。そんなことを展示にしました。作品を「こういう立場の人が、こういう状況でこういうことをしているということは、こういう意味でしょ」という風に受け止めてしまうと、表現がポジショニングされてしまい、叫びみたいなものとか、誰かが急に真実を語るかもしれない、ということが排除されてしまうので、よくないと思っています。なので、コンセプトを評価するということは不健全なことだと僕は思っています。
山本悠が「不在のものについて語り始める時」に、魔法がかかる気がしている。猫のブラック、コードビンゴ、クリスマスのリハーサル、情報くんと物質ちゃんも、「語り」についての作品だった。(gnck)
ねこのブラックがきますように
そもそも「お絵描き掲示板で描く」っていうことは,どういうことなのか? 何の公共性もないような行為のようでもある.誰に向けて描いているのか,例えば僕が彼の家に行って,机の上で彼に絵を描いて「ほらほら!」って見せてる,みたいな感じでありながら,同時にそれを窓から少年が覗いている,みたいな.その少年は無言で,気配も残さず帰っていく,とか. pixivと違って,お絵描き掲示板って(つけようと思わなければ)閲覧数がつかないわけです.誰が来ている(観ている)場所なのかもわからない.そういう変なことをできる空間が,なぜか一時期最適なものとして採用されて,ドバーっと広がったという現象は,かなり興味深く,お絵描き文化固有のものではなかったのかと,僕は思います
『パンのパン01 山本遊特集号』に掲載されたPDFまんが《Yourbodyisyours》(二〇一七)は、無機物も有機物も関係なく、あらゆるオブジェクトの出会いを描いた作品だ。最後に登場する人工衛星は、だからこそ「あなたは一人しかいない」と囁き、他者を肯定する。作品概念への抵抗や、ハプニング性によって道化を演じているかのように見える彼の活動の根本には、こうした世界に対する信が確かな実感として存在している。(塚田)
「さすがに現地で描くのはたいへんなので、家に帰ってから描くんですけど、めちゃくちゃしんどいです。誰にも頼まれていないのに・・・・・・」 それイラストレーターですかね。 「イラストレーターですね」
伊藤ガビン「{伊藤ガビン・クリエイターのサバイバル術} VOL.54 山本悠 イラストレーター」『SWITCH VOL.36 NO.6 JUN. 2018』
どの帽子の下にもファミコンとかスーファミのソフトが隠れているが、どれも野球のゲームだ。(鹿くん)